地下書庫巡礼記

どこかに眠る、懐かしの物語を探して

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カナファーニー『ハイファに戻って/太陽の男たち』


 こんにちは。

 カナファーニーの『ハイファに戻って/太陽の男たち』を読みました。

 

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 『ハイファに戻って/太陽の男たち』は、パレスチナ難民の、受難と、苦悩と、争闘の中に生きる姿を描いた作品集です。

 

 これら作品の背景には、パレスチナ人が被った異邦人によるパレスチナ収奪の歴史が、つねに重々しく横たわっています。

 その壮絶な歴史の一部始終は、訳者奴田原氏による解説にて、作者の来歴および無名のパレスチナ青年の手記の引用から垣間見ることができるでしょう。

 

 以下、印象に残った作品について述べます。

  

「悲しいオレンジの実る土地」

 突如としてパレスチナ人を襲った悲劇と、それに打ちのめされる大人たちの姿が、少年の目を通して語られます。

  幼いながらも主人公の少年が、以下のように確信するに至るさまは、その生活の過酷さを物語っています。

「ぼくがパレスチナで知っていた神も、やはりパレスチナから逃げ出していっていたのだということをぼくはもはや疑わなかった」p.110

 かつてはみずみずしさと潤沢さの象徴であったオレンジが一転し、水気を失ったオレンジと冷たい六連発銃が並んでクローズアップされる最後の描写は、あまりに壮絶です。

  

「太陽の男たち」

 それぞれ事情を抱える三人の男が、バスラ(イラク)から砂漠を横切りクウェイトへの密入国を図る話です。

  男たちは、検問所をかいくぐるため、密入国請負人の運転する給水車のタンクの中に身を隠します。しかし、検問所を抜けた先で密入国請負人が見たのは、灼熱の太陽が照り付ける鉄の密室の中で絶命している三人の男たちの姿でした。

 最後は、「なぜお前たちはタンクの壁を叩かなかったんだ」という密入国請負人の男の叫びが寒々しくこだまし、幕が閉ざされます。

 

 作中では、熱中症は「太陽に打ちのめされる(p.86)」ことと表現され、灼熱の砂漠は、「焔と煮えたぎるタールの鞭で、彼等の頭を鞭打つ眼に見えぬ巨人のようだ(p.87)」と比喩されます。

 このような太陽と砂漠の横暴なイメージと、そこから受け取れる不条理さは、やはりパレスチナ難民の境遇に重なるところがあるように感じます。

 暗闇の砂漠に響き渡る密入国請負人の叫びには、冷たくなった三つの身体に対する彼自身のやりきれなさと同時に、物語の枠を飛び越えた糾弾のメッセージを受け取れるような気がしてなりません。

  

「ハイファに戻って」

 イギリス軍による総攻撃により、それまで日常と生活を築いてきた都市ハイファを突如奪われたとある夫婦の話です。

 略奪から二十年後、夫婦は再びハイファの地を踏むことを決意します。しかし、かつて夫婦が住んでいた家では、彼等の代わりにユダヤ人夫婦がそこで二十年間の生活を営み、そして自らの子もユダヤ人夫婦に養子として育てられているのを目の当たりにします。

 

 主人公である夫は、自らの妻、そして彼等に「祖国とは何か」という問いを投げかけます。

 かつて自分の子であった青年との対話、そして青年の主張へに対する失望を通して、彼はその答えを自ら見つけのですが、その力強さと言ったらどうでしょうか。

 祖国とは、土地ではない。存在し続けた家ではない。

 「他人の弱さや過ちが彼等の犠牲によって自分の存在の権利を構成し、自分の間違いと自分の罪とを正当化する(p.257)」ことが決して起こらないところ、それこそが「祖国」なのだ、と最後には結論付け、夫婦はハイファを後にします。

 

 この「祖国とは何か」という問いに対する、これ以上の説得力の持つ言葉を私は知りません。

 パレスチナ人が被った受難を語るにとどまらない、「未来」を語り、そして託していく生の流れが感じ取れました。

  

まとめ

 訳者である奴田原氏による解説含め、素晴らしかったです。

 苦しみを纏った足が渾身の力で地面を踏みつける、そんな生のイメージが、どしんとどしんと何度も胸を叩く作品でした。