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山尾悠子『飛ぶ孔雀』の感想②|滅びの美学のその先

 『飛ぶ孔雀』がとにかくすごいんだ!! という気持ちがまだまだ静まりません。そんなわけで、こちらの記事の続きになります。↓

twilight-daniel.hatenablog.com

 

 『飛ぶ孔雀』についての前回の記事では、物語のあらすじを追っていきその解釈について述べました。今回の記事では、物語の中で重層的にリフレインされるモチーフの幾つかに言及し、その上で『飛ぶ孔雀』以前の同作者の著作群から見た作風の変遷について述べたいと思います。

 

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リフレインされるモチーフ

 まずは『飛ぶ孔雀』をモチーフへと解体していき、その中で主要なものの一部である下記三つについて取り上げましょう。

円錐帽あるいは塔(タワー)のイメージ

 物語終盤で何の脈絡もなく修練ホテルの井戸の底から姿を見せるのが、蛇女の被る円錐帽です。これは、劇団・幻魔団が上演する「円錐帽の蛇女」の物語の一場面に由来していますが、そもそもこの円錐帽は地から天に伸びる「塔(タワー)」のイメージを継承しているだろうと思われます。

 「塔」のイメージは、弱視の少女ヒワにより「浮遊する夜行性の蟻塚」であり「成長する力の象徴」と表現されます。また円錐を上下逆にすると、Kが語る「ダム穴」あるいは「水底の穴」の形状となり、強力な力に吸い込まれそうな恐怖と誘惑とを合わせ持つ様子が表現されます。すなわち『飛ぶ孔雀』において、円錐帽は得体のしれない大きな力の象徴として登場するのです。

 余談ですが、タロットカードにおいて<塔>のカードは、カードの上下方向(正位置、逆位置)を問わず<崩壊>を示すとされているらしく、終盤の展開を踏まえるといかにも示唆的ですね。

重層回廊建築

 第二部「不燃性について」で登場する階段井戸あるいは修練ホテルは、十角形の内部回廊が上下に重層した建築物で、その幾何学的構造が印象的です。この構造は、同作者の「遠近法」(および「遠近法・補遺」「火の発見の日」)で語られる「上下の果てを持たない円筒構造の内部宇宙」である《腸詰宇宙》を連想させます

 ただし、よく似た構造のこの二者の間には有限か無限かという点で決定的な違いがあります。『飛ぶ孔雀』の十角形の重層回廊建築が、物理的な空間の歪みが生じているらしいことは言及されているものの重層構造自体は有限の様子であるのに対し、《腸詰宇宙》の内部回廊は、果てなく重層する始まりと終わりのない無限性を有した構造を持ちます。(また「遠近法」では、《腸詰宇宙》に巨大な蛇が姿を現し、この蛇が己の尾を飲み込んでウロボロスの輪を完成させることにより物語は永遠の終焉を迎えますが、このエピソードもまた《腸詰宇宙》の無限性を一層強化しているといえるでしょう)

 すなわち『飛ぶ孔雀』において、十角形の重層回廊建築は無限性の否定を暗示すると言えないでしょうか。これは上記の円錐帽あるいは塔のイメージとも矛盾しません。

非対称な対なる存在

 『飛ぶ孔雀』では、対となる存在のモチーフが至る所に散りばめられ神出鬼没に顔を出します。列挙すればきりがないですが、例えば以下のようなもの。

・「つねに揃いか補色の色違いを好む」「ピンクと水色の」双子

・「投光器だらけの真っ青な芝生世界」と「緋毛氈と野点傘」、「偽の青い炎」と「赤い目の瞋恚」のように描かれる赤と青の鮮烈な視覚イメージ

決して共に存在することがないと明示されるQとKの世界採石場と塵芥処理場)

 たとえ夢が<げんじつ>の投影であったとしても、必ずしも精巧な鏡像関係とは限らないのと同様に、これら対となる存在は多くが非対称であるかのように思われます。

 また「遠近法」では、《腸詰宇宙》の構築にあたり幾何学的対称構造に対する偏執的なまでのこだわりが垣間見えましたが、『飛ぶ孔雀』ではその手の執着が潔く手放されているように感じます。

 

滅びの美学のその先

 これまでの作品においても人工的な幾何学的世界を構築してきた作者ですが、その多くで、見事な筆致で築きあげてきた世界を崩壊させ終焉を迎える傾向があるのは、最早形式美といっても過言ではないでしょう。この滅びの美学を突き詰めた「崩壊のための創造」とも思われる山尾作品の傾向は、上述の通り「遠近法」においても例外ではありません。

 ところが本書『飛ぶ孔雀』では、この通過儀礼的プロセスの「その後」が提示されます。これまでの作品の傾向を知る読者はこの点に大きな衝撃を受けた人も多いのではないでしょうか。私もその一人です。

 第二部終盤の再構成された世界では、主要な登場人物であるタエとスワの姉妹を取り巻く環境の位相が入れ違いになります(詳細は前回の記事を参照)。世界は一度崩壊しバラバラに解体された世界の構成要素がその配置を変え、異なる世界全く異なる物語が再構成されるのです。それはあたかも第一部の川中島Q庭園の動く芝のように。あるいは現実を咀嚼した上で縦横無尽に脳内で展開する夜の夢のように。そして、ここに「創造崩壊そして再構成」という構図が導かれます

 上述の通り『飛ぶ孔雀』では、対となる存在のモチーフがリフレインされます。赤や青などの補色の視覚イメージ、夢と<げんじつ>、<実像と虚像>の鏡像関係、仄めかされる<生と死>――。幻想小説では、得てしてこのような背反する事象のあわいが描かれますが、この<あわい>を構築するためにはまず二元論の概念に言及せざるを得ず、それゆえに二元論で規定された世界から本質的に逃れえないというジレンマが常に付きまとうと感じていました。

 このジレンマに対して、『飛ぶ孔雀』では弁証法的アプローチにより、世界の創造と崩壊から再構成=アウフヘーベンを導きます。対なる存在のモチーフが重層的に繰り返されるのも、この結論を導くための豪華絢爛な舞台装置のようにさえ思えてきます。

 恐ろしいことに、この作者は同じ場所に留まり続けないのです。私が『飛ぶ孔雀』を通して視るのは、イマジネーションの力を以って「言葉による創造」というステージに堂々たる面持ちですくと立つ山尾悠子の力強い姿です。

 

前半の記事はこちら↓

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