地下書庫巡礼記

どこかに眠る、懐かしの物語を探して

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皆川博子『辺境図書館』|読書体験を通じた共感・作家の死後について

皆川博子著『辺境図書館』を読みました。

皆川氏の愛好する作品の中から「素晴らしいけれど忘れられがちな古い作、あるいはおびただしい出版物の中に埋もれがちな作」とのコンセプトに基づき選出された、25の章立ての読書案内です。

 

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読書体験を通じた共感について

本書で取り上げられる作品は、いわゆるメインストリームではないニッチなものがほとんどです。そのような作品ラインナップの中で、いまや比較的認知度が高い作品の一つが、アンナ・カヴァンの『氷』『アサイラム・ピース』なのではと思います。

そのカヴァンの章にて、皆川氏が『アサイラム・ピース』を初めて読んだ際の胸中のおののきが綴られています。震えるほどに激しい共感の念を巻き起こしたのは、自分と鏡写しとも思えるほどの存在や感情との出会いだったのでしょう。

 

このように、作品紹介にて氏の琴線に触れたと言及される価値観には、皆川氏自身の著作で展開される価値観と多く共通する部分があります。

陰と陽、聖と俗、生と死といった対立概念の相互互換性(「価値の転倒」と本書では表現されます)、あるいはこれら対立概念が共存しうる両義的状態に対する称揚は、皆川氏の著作の特筆すべき特徴の一つですし、心身を削り血反吐を吐きながら執筆しているのではないかと感じるほどに鋭利で情け容赦のない負の感情の掘り下げは、70~80年代ごろの皆川氏の著作に顕著でありました。

 

皆川氏の創作に対する原動力は、現実世界での生きづらさや違和感に立脚しているのではないかと常々感じているのですが、そのような中で、読書体験を通じた共感(ひいては執筆活動)とは、現実世界から逃れるシェルターであり、耳当たりがいいだけのまやかしの言葉たちに対する抵抗でもあり、果ては身の内に飼う心の修羅を解放していく行為でもあったのではないかと察します。

 

死生観・作家の死後について

好きなものについて語っておられるときには、思わずキャッキャという擬態語を当てはめたくなるような、お茶目でかわいらしい一面が顔をのぞかせます。一方では、老いや死生観にも触れられており、

何も、ないということは、不可視の何かが偏在していることと同義ではないか。偏在しているのは「生」ではないか。(略)「死」は、その「生」に還ることではないか。言葉のあやではない感覚なのですが、(略)

と述べる語り口の腰が据わった穏やかさに、先ほどの少女のような軽やかさとの対比がいっそう際立つようでとても印象的でした。

 

思えば、皆川氏の作品において生と死の境界は極めて不確定で、どちらの状態でもありどちらの状態でもない、薄暮のようでもあり黎明のようでもある、そういったものでしたね。

 

巻末の書下ろし掌編である「水族博物館」も、作家たちの生とその後を描いた一つの形であり、読書案内である本書の締め括りとしていかにも相応しいでしょう。

豊かな文章は、孤独に寄り添い読み手の魂を育み、たとえ時が流れ肉体が朽ちたても、心動かされる者がいるかぎり脈々と息づいている。そのような文学の連綿とした繋がりを、先人たちへの存分な敬意と実った稲穂のごとき謙虚さをもって、うたっているようです。

 

さいごに

皆川氏の作品に心動かされ、強く共感してきた一読者として、数々の作品が生まれる土壌を育んだであろう読書体験を垣間見ることができる機会となりました。

未読の書はまだ見ぬ宝の地図ですし、既読の書は同じ歓びを知る者だけが共有できる特別なメッセージでもあるでしょう。各章の標題作品くらいはすべて読破してから、再度読み直して感想のすり合わせをしてみたいですね。

 

ちなみに、石上玄一郎「蓮花照応」と野溝七生子曼珠沙華の」は、本書を通じて初めて知ったのですが、是非とも読みたいと感じました。他の積読も崩しつつ、探したいと思います。