地下書庫巡礼記

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高村薫『晴子情歌』|母と子をつなぐ糸

高村薫著『晴子情歌』を読みました。

一人の人間の生きてきた足跡から「人が生きてそして死ぬこと」の意味を探る、華やかさはなくとも胸が詰まるような感情でじんわりと満たさせるなんとも味わい深い作品です。

 

 

 

あらすじ

母・晴子から届いた大量の手紙には、母自身の半生が切々と綴られていた。少女時代から瞬く間に過ぎたようでもあり、時折人生という舞台劇のハイライトであるかのようないくつかの濃密な瞬間があった、晴子という人の歴史——。

これまで自らのことを多く語ってこなかった母と、そんな母が手紙にしたためた言葉をぎこちなくも受け取るその息子の繋がりが描かれる。

 

生きて死ぬということ

生きること:生命の姿について

『晴子情歌』を読んでいると、生命の姿形に触れたときの、力強さに感心するやら情けないやら可笑しいやらの、泣き笑いのような感情を覚えます。

それは例えば、晴子からの手紙の中で自身の少女時代の思い出とともに描かれる、(晴子にとっての) 祖母の少し濁りのある優しい瞳や、色白だった父の赤々と日焼けした顔、それらを愛おしむ晴子の眼差しに対してであったり、あるいは善良で純朴な父方の親戚一同や活気に満ちたニシン場で出会う人々の、日々の営みや労働から生まれる無数の小さなエピソードに対してであったり。

「単純な生き方ほど生命にとって望ましい」と晴子が少女時代の思い出を振り返る通り、究極のところ、生活に根差した素朴で明朗な人間の在り方こそが、生命の姿を象徴するのかもしれません。

生きて死ぬということ:人と人との交わり

肉親の死を、弟妹の死を、義父の死を、〈ただ深い不在の穴〉のようだと表現する晴子。ここに着想の一端を得て、生とは死とは、人と人の交わりとは、〈平面ではない、ある種の曲面を描いた地平〉だと思い至るその息子・彰之。

第四章「青い庭」は、この核心を突くイメージの描出プロセスでもあり、息を詰めて夢中になって読みました。

生まれ、出会い、人生のある一時を共に過ごし、時が来れば最後は遠くへ去っていく。自分から遠ざかろうとしている人を前にしたときの、「取り残される」という感覚

物語を通してこれだけの紙面を尽くしてようやくたどり着く、息子・彰之から母・晴子への「これ以上分割できない (略) 〈寂しい〉」という感情の、その原始的なことといったら。しかしこれこそが生命の姿の本質のような気がして何とも言えず、またこの母子をつなぐ不格好に縒り合された細く太い糸のようにも見えたのでした。

 

絵画的な表現

視覚・色彩イメージ

『晴子情歌』は、晴子からの手紙をはじめとした人との交わりや日々の生活から着想を得て、思索のイメージが連鎖していき、やがて人生観ともいえる一つの包括的な思想へと織り上がっていく構成になっています。

その過程が、少しずつ色を置いて全体像を作り上げていく絵画の制作過程のようでもあり、同時に、場面の描出自体もどこか絵画的というか、視覚・色彩イメージが非常に豊かで光と陰のニュアンスや抑揚が鮮やかに記憶に残りました。

朝日差す障子の「青」

例えば、晴子の婚礼の翌日、明け方のシーン。

婚礼の式の後、晴子は夫とただ五目並べだけをして夜を明かし、そして迎えたのは夫の出征の朝。ふと視界に映った朝日が薄く差す障子の色が、まるでセザンヌのサント=ヴィクトワール山の「青」、モネの睡蓮の朝の「青」のようだと想いをめぐらす、この場面。

この場面は、晴子がこのとき置かれていた複雑な背景が遠景に遠のくかのような、あまりに冴え冴えとした強いインパクがあり、また作者の気障ささえ感じるほどあまりに「絵」になる、本作で最も美しいと胸を揺さぶられた場面の一つでした。

 

最後に:アイデンティティという命題

——自分という人間はどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか。

アイデンティティに関するこの手の命題に直面したとき、多くの人 (作家たち) は自身のルーツを辿るというアプローチを取るような気がしているのですが、『晴子情歌』も物語内で自身のルーツを辿る (知る) という通過儀礼を経ていきます。

そして最後にたどり着くのは、母子をつなぐ不格好に縒り合された細く太い糸のようなつながりであり、子から母へ向けた「取り残されるのは寂しい」という原始的な感情であったという結論に、生命の本質に触れたかのような思いに打たれた、なんとも味わい深い素晴らしい作品でした。

 

本書は名家・福澤家を描いた三部作の第一作目であり、ここから『新リア王』『太陽を曳く馬』へと続きます。第二作目の『新リア王』を読むのが楽しみです。

 

 
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