地下書庫巡礼記

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『骨の山』を考察する 黙して語る〈結びつき〉のレトリック

アントワーヌ・ヴォロディーヌ著『骨の山』(濵野耕一郎訳) を読んだ。

 

ある種の共通した哀しみを持つ者同士の紐帯を実験的な手法で描く、ヴォロディーヌらしい小説だ。

 

 

あらすじ

架空の二つの全体主義体制がしのぎを削る世界。かつて工作員として国外任務に就いていたマリアとジャンは、体制への反逆のかどで監禁され、過酷な尋問を受けていた。

今後もはや自由の身になることが叶わない絶望的な運命を悟る二人だが、志を共にしていた彼らの間には、暴力や政治的圧力すらもすり抜ける、強固で不可視な〈結びつき〉が存在していた。

幾何学的な物語構造とレトリック技法を用いることで、人と人の結びつきを「非明示的に表現する」ことを試みる、実験的な小説。

 

物語構造の幾何学

『骨の山』は二部構成を取り、第一部はマリアの視点、第二部はジャンの視点で展開する。また、第一部と第二部は共通したフォーマットの章立てとなっており、どちらの部においても、現在進行形で進む取調室での尋問の描写に次いで、二人がそれぞれ執筆したとされる掌編集が作中作として挿入される。

ここで重要なのは、「第一部/第二部」という構造、すなわち「マリアが語る物語/ジャンが語る物語」の構造には、極めて厳格に幾何学的な対照性が付与されている点だ。これにより、両者は明示的に〈対なるテキスト〉となる。

 

対なるテキスト間の照応関係

その幾何学的な物語構造により〈対なるテキスト〉となった「第一部/第二部」は、それぞれのテキスト内において相互に言及し合う。

例えば、第一部と第二部でそれぞれ挿入される作中作の掌編集では、マリアが執筆した一つの掌編とジャンが執筆した一つの掌編を合わせて読むことで、独立した二つの掌編は、相互に補完し合う一つの物語へと姿を変える。

掌編集を構成する全七話は、いずれも対となるテキスト間にこのような照応関係が成立している。『骨の山』という小説を読み解くにあたり、作中作であるこの二つの掌編集は極めて象徴的な役割を果たしている。

まずはこの掌編集について、「マリアが語るテキスト」と「ジャンが語るテキスト」がいかなる手法で相互に言及しあっているのか、その照応関係を整理するのがいいだろう。

 

作中作におけるテキスト間の照応関係 各論

作中作である全七話の掌編集について、対なる二つのテキスト間に如何なる照応関係が成立しているのかを各論的に述べる。

掌編 #1:因果

一人の男の生前と死後をそれぞれのテキストで描く。一方のテキストの語り手は〈死を与えた者〉であり、他方のテキストの語り手は〈死を受けた者〉である。したがって二つのテキストは、男の死を原点とした過去と未来であり、男の死という出来事に対する因果として機能する。

掌編 #2:対照

「静寂な月夜の森」という共通した舞台に、二つのテキストでそれぞれ性格の異なる姉妹を登場させ、この世に〈取り残された者〉の在り方の違いを描く。一方のテキストでは、死者との密やかな共生を夢見る〈取り残された者〉が描かれ、他方のテキストでは、自らもまた死者の世界へと旅立つ決意をする〈取り残された者〉が描かれる。場のトーンを統一した二つのテキストの対比により、明確な差異である「死者との関わり方」における両者の対照性が際立つ。

掌編 #3:相似

写真や指輪などのアイテムを通じて呼び起こされる〈愛する者の喪失〉という痛みの記憶が、時空間を超えて幾重にもリフレインする。特筆すべきは、いずれのテキストにおいても、喪失の痛みを抱える者の隣に、そっと静かに寄り添い、連帯を表明する理解者が必ず現れる点である。また、一方のテキストでは喪失の痛みを抱える者であった人物が、他方のテキストでは理解者の役割に遷移しており、このような連帯がテキストを超えて数珠つなぎのように広がっていく可能性を含意している。

掌編 #4:夢と現実

人物、地名、エピソードなど、二つのテキストには多くの共通要素が点在する一方で、整合性を保ったまま双方のテキストの内容を両立することはできないという矛盾を抱える。これはまるで夢と現実の関係のようである。実体験の記憶が夢として発露するプロセスに似て、一方のテキストが解体され、そして他方のテキストへと再構成される。どちらが夢でどちらが現実なのかも判然としない、奇妙な符合と矛盾を内包した不思議な対である。

掌編 #5:境界線の共有

「現状からの脱出を試みる夢」にフォーカスを当てることで、どこにも逃げ場はない現実の閉塞感を描く。二つのテキストではそれぞれ内容の異なる夢が記述されるが、「鮮明な夢/色褪せた現実」という対比構造が共通フレームとなり、〈ここではないどこか〉を希求する衝動としての夢、そして夢と現実の間に引かれた憂鬱な境界線の存在を共有する。

掌編 #6:一接点の共有

ある時代のある一場面、同じ空間、同じ時間を共有した若者たちの生と死を、それぞれのテキストでは異なる視点から切り取る。一時の交錯ののち、それぞれの人生は別方向へとのびていき、その後交わる者もいれば交わらない者もいて、しかし最後はみな等しく死とともに幕を閉じる。二つのテキストは、長く短い人生のとある接点の記録である。

掌編 #7:変奏

「死によって引き裂かれる二人」という同一のシナリオをベースとして、それぞれのテキストでディテールを変えながら、この必定の運命を反復する。二つのテキストは互いの変奏として存在し、合わせ鏡のようなこの相互参照性によって、主題は無限に増幅していく。

 

全体を通じたテキスト間の照応関係

作中作である掌編集において、「マリアが語るテキスト」と「ジャンが語るテキスト」は、上述のようにあらゆる手法を用いながら、相互に言及しあう。全七話の掌編集は、テキスト間の照応関係のバリエーションであり、バリエーションの豊かさによって主題は繰り返し反復され、普遍性を強めていく。

ではこの場合の主題とは何か。それは、非明示的な形を取らざるを得ず、暗号化されながらも存続する〈結びつき〉の存在証明である。

本書『骨の山』は、その幾何学的な物語構造によって、「マリアが語る物語/ジャンが語る物語」が〈対なる存在〉であることが明示的に提示される。一方で、その対なる両者の間に如何なる〈結びつき〉が存在しているか、その実態は明示されない。「存在すること」は明らかだが、「どのように存在しているか」は断固として秘匿されるのだ。マリアとジャンを詰問する尋問官が、二人に対して苛立ちともに抱くもどかしさの原因はそれである。

しかし、このように暗号化された両者の〈結びつき〉が如何なるものか、それを読み解く方法は存在する。マリアとジャンの〈結びつき〉は、作中作における〈対なるテキスト〉の照応関係へと投影されているからだ。

ただし、その投影方法はとても間接的なものである。〈対なるテキスト〉それ自体には、〈結びつき〉の実態を直接的に示す内容は記述されていないからだ。そこで必要となるのが、暗号を復号化するための「鍵」な訳だが、この場合の「鍵」とはすなわちテキストの「読者」である。テキスト間の照応関係をメタ視点から読み解き、テキストとテキストの〈結びつき〉をマリアとジャンの〈結びつき〉へと復号する。「意を解する」読者を通さずには成立しない、このレトリック的ギミックこそが、本書で用いられる復号化の手法なのだ。

 

引き裂かれる運命にある者たちが残すもの

ではこの復号化の手順に従い、各論的に整理した作中作における〈対なるテキスト〉の照応関係をもとに、「マリアが語るテキスト」と「ジャンが語るテキスト」の〈結びつき〉をマリアとジャンの〈結びつき〉へと復号してみよう。

この瞬間に浮かび上がるマリアとジャンの〈結びつき〉とは、互いが互いの因果であり対照であり相似形であり、奇妙な類似と矛盾を内包しつつ、志を同じくし、共に過ごした瞬間の美しい思い出や哀しい記憶を色褪せさせることなく携えた、相互に影響を与え合い響き合うような、そのようなもの。主題の反復によって編みあがったこの像こそが、暗号化され秘匿されながらも、水面下で存続していたマリアとジャンの〈結びつき〉の色鮮やかな実像だ。

作中作である掌編集では、いずれのエピソードにおいても登場人物たちの死の気配が身近にあった。そしてマリアとジャン自身も、おそらく近い未来にその運命を辿ることになる。しかし死によって引き裂かれる運命にある彼らの間の確かな〈結びつき〉は、志を同じくした未来の誰か、彼らと同じ哀しみを知る誰かのために、不可避の不条理をかいくぐり、密やかな形へ姿を変えつつ静かに存続していくだろう。

 

まとめ

まずは、『骨の山』の物語構成上の幾何学的な「対構造」について述べ、そこから対となるテキスト間の照応関係を各論的に整理した。その後、物語内で「明示されているもの/秘匿されているもの」に言及した上で、秘匿されているものを如何にして読み解くか、読み解いた結果何が明らかになるかについて考察した。

『骨の山』は、物語の幾何学的な構造設計やレトリック的手法の重用など形式主義的なこだわりが強く前面に出ている。「巨大な不条理に対峙する人々の越境的な連帯」といったテーマはもちろんとして、そのような美的感覚を重視するスタンスからもヴォロディーヌの作品らしさを感じたのだった。

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さてこれで、現時点で邦訳済のヴォロディーヌの三作品を読み終わってしまったのが悲しい。他の作品も読みたいな。