地下書庫巡礼記

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『スマイリーと仲間たち』ジョン・ル・カレ|これまでの人生との対峙

ジョン・ル・カレ著『スマイリーと仲間たち』を読んだ。

『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』『スクールボーイ閣下』に続く〈スマイリー三部作〉の第三作目にあたり、スマイリーと宿敵カーラの決着の模様が描かれる。

最終章ということもあってか、スマイリーの為人と生き方に焦点を据えた、奇の衒いのないストレートな話だったと思う。

 

 

 

あらすじ

英国情報部のかつての工作員が殺害される事件が発生した。この後始末のため、スマイリーは引退生活から三度、引き戻される。被害者の足跡を追っていくなかで、やがて長年の宿敵カーラその人へと繋がる情報が浮かび上がってくる。

 

これまでの人生との対峙

『スマイリーと仲間たち』は、これまでの人生、過去に対して今一度対峙することになる話だ

人生とは選択の積み重ねであり、現在は過去に下した選択の上に成り立つ。生きていれば、望むと望まざるとにかかわらず、これまでの人生、これまでの言動とその功罪に対して向き合う瞬間がいつかは訪れるものだ。

主人公スマイリーの場合、彼の胸中でくすぶり続ける余燼はカーラとの因縁である。スマイリーの回想を通じて何度も反芻されてきたカーラの鉄仮面は、スマイリーが犯した最大の失策の記憶でもある。

スマイリーはこれまでの人生を公私共に振り返りつつ、次のように内省する。

スマイリーは自分がだれにも先導されていないこと、おそらく先導不可能な人間であることを知った。わが身への唯一の抑制は、自身の理性と、自身の人間性のそれであると知った。(中略) おれは人生をさまざまな制度に投資して、いまになって残ったのは自分だけだ——そんな感慨がわいたが、悔いはなかった。

「さまざまな制度への投資」とは、祖国のために捧げてきた影なる奮闘の数々であり、いまや暗礁に乗り上げた妻アンとの結婚生活だ。それらを経て、彼の社会的アイデンティティは、国家体制や組織、社会的繋がりへの帰属意識ではなく、自身の合理的思考と道徳観を拠り所としている、とスマイリーはあらためて自覚する。そして、その生き方が意味する孤高の道のりについても。

このスタイルは、今作の主題となるカーラとの決着に臨むスマイリーの心理へと繋がっていくものだ。

 

ベルリンの冬

スマイリーが抱えるパラドックス

『スマイリーと仲間たち』で最も印象的なシーンの一つは、ラストシーンで描かれる雪降るベルリンの一幕だろう。

大捕り物を目前に控えたスマイリーはひどくナーバスになっており、年来の悲願でもあったはずの瞬間は、敗北の場面かと錯覚するほどの陰気さを纏う。このときスマイリーの胸中を占めていたのは、二つの感情だ。かつてカーラの奸計により辛酸を嘗め、その悲劇的な影響力について身をもって知りながら、それでも今度は自らの手として同じ策略を使うこと、その憂鬱。そして、他ならないカーラへの同情だ。まさにスマイリーはカーラに同情していたのだ。カーラの謀略によって今なお癒えることのない手酷い傷を負った、過去の自分自身を投影して

他者への強い共感力に起因するこのアンビバレンツこそが『スクールボーイ閣下』でギラムが下記のように予期していた、スマイリーの心中を掻きむしるパラドックスの姿なのだ、と思い至る。

いつかジョージ (※スマイリーのこと) の身に起きることは、きっとふたつにひとつだ。気にすることをやめてしまうか、パラドックスにおしつぶされてしまうかだ。

ジョン・ル・カレ『スクールボーイ閣下』

 

スマイリーの心象風景

またこのベルリンにおいて、スマイリーが認知している現実世界はひどく内向性を帯び、どこか心象風景めいているのも特徴的だ。その場に同じく居合わせているギラムやエスタヘイスら周囲の人間の挙動は遠景へと去り、もはやこの場面におけるBGMとなる。その一方でスマイリーの意識は視界に映る「場」そのものへと強く向けられており、彼の心境のフィルターを通してクローズアップされた細部は、時にいかにも暗示的だ。

夜闇を照らす街灯の光は、人生と時代の岐路を照らすスポットライトとなり、人と人の一瞬の邂逅と、その後の進退をドラマティックに切り取る。あるいは、カーラとの因縁を象徴するライターは、カーラその人とスマイリー以外には目撃者もなくそのシンボルとしての意味をひっそり遷移させる。極度にスマイリーの知覚と同化しているこの場面で、彼の耳だけに届いたという、ライターが地に落ちる音を、読者はスマイリーと共に聞くだろう。

この日、冬のベルリンでスマイリーが立ち会ったのは、スマイリーの人生に公私ともに長年色濃く爪痕を残し続けてきた〈過去〉との決着、その去就の見届けでもあったはずだ。

 

孤独への眼差し

亡命ロシア人の中年女オストラコーワもまた、心の奥底で長年くすぶらせ続けてきた〈過去〉と向かい合うことになる。結果的に彼女は巻き込まれた形であり、またついぞ自らの身に降りかかった出来事の政治的真相を知らないままではあったが、事態が終結しその後養生生活を送るなかで、オストラコーワは吹っ切れたように語る。

自分はこの世にひとりぼっちという気持ちはあったが、冬景色のなかではそんな孤独もまんざらいやなものではなかった

このとき、孤独を人生の伴侶として受け入れるに至った彼女の心境はいっそ明朗ですらあり、この穏やかさは確かに喪失からの回復の気配を内包するものだ。

またこれは『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』でビル・ローチ少年の目を通じて言及された、ジム・プリドーの孤独に向けられた眼差しにも通底するようにも思える。このような孤独の形をル・カレはとても優しく描くのだ。

 

まとめ

『スマイリーと仲間たち』は、これまでの人生に今一度対峙する話だ。スマイリーのそれは、カーラという存在に繋がる。今回の事件に関するスマイリーの描写の襞一枚一枚に彼の生真面目さ、理性と共感の間で折り合いをつけるための幾許かの抵抗が滲み、その哀切さに胸が詰まった。

これにて〈スマイリー三部作〉は完結だが、他にもいくつかスマイリーが登場、言及される話はあるらしい。またいずれ手を出したい。

 

 

▼〈スマイリー三部作〉#1『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』

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▼〈スマイリー三部作〉#2『スクールボーイ閣下』

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