地下書庫巡礼記

どこかに眠る、懐かしの物語を探して

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『天涯図書館』「書くこと」の意味についての模索

皆川博子著『天涯図書館』を読んだ。

 

『辺境図書館』『彗星図書館』につづく、皆川氏による書籍案内エッセイである。

幻想小説や詩歌を中心とした選書なのは変わらずだが、2020~2023年連載の時勢を反映し、「ロシア情勢」「(戦争、パンデミックを引き金とする) 社会機能の麻痺」についての言及が多く、前二作とやや毛色が異なっている。

 

 

 

 

戦争の記憶

皆川氏は1930年生まれ。先の戦争の体験者だ。

当時の記憶として、終戦を境に思想教育に劇的な方向転換があったこと、またこれにより味わった精神的混乱について、皆川氏はいくつもの著作で触れている。死こそ誉れと称揚された戦中の軍国主義から、生はなによりも尊いと説く戦後の民主主義・人権主義へ。ある日突如として「正しい」とされる価値基準が真逆に変わる。

新しく導入された「正しい」価値観は耳当たりこそいいが、世界の確かな実相であるネガティブな側面を映していない、そう感じる。「建前が真実であるかのごとく装う教条的な作の、対極にある作に私は惹かれる (p.241)」と氏が語る、世の欺瞞に対する強烈な不信感と抵抗の原体験はここなのだろう。

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また、2022年ロシアのウクライナ侵攻について、「開戦の情況が前の大戦と酷似している (p.213)」との所感が述べられている。ロシア情勢についての言及や、東欧・ロシアに関する選書が多いのも、故あることと察する。

 

「書くこと」の意味についての模索

「生の否定」を唱えるシオランの厭世主義へ深い共感がある、と皆川氏は語っている。鬼気迫る心の修羅を描いた70~80年代ごろの著作群からも、まさにその通りなのだろうと思うのだが、その一方で本書ではボブロフスキーをはじめとしたいくつかの作品を足掛かりとして、「書くこと」の意味について思索が及んでいる

ボブロフスキーは、戦火に焼かれた美しい土地と人々の記憶について、時代遅れと批評されながらも「誰が、/平原の波打つ歌を/歌い継ぐのか、」と詠った、とある。このとき「書くこと」の原動力となっているのは、喪失していくものを詩という形で永く守り続けたいという使命感だ。

あるいはフアン・ホセ・サエール『孤児』についての章で言及されているような、「蜃気楼のような世界で束の間の生を得た証」を誰かに知っておいて欲しいという、自己の存在証明のための切なる欲求、という形をとる場合もあるだろう。はたまた、レイナルド・アレナスが吐露するところの「ほぼすべての人類に対するぼくの復讐」か。

いずれにせよ、「書くこと/語ること」の意味の模索は、ひいては生の意味の模索でもあるだろう。

 

短編「焚書類聚」について

巻末に収録されている短編「焚書類聚」は、本書の総括のような内容である。

国家によって管理された食品、口座、思想。「贅沢は敵」というスローガンが再び息を吹き返し、書物の改変、破壊が行われる世界。皆川氏の作品では数少ない近未来SFの形をとっている。

ショーン・プレスコット『穴の町』についての章で、「見えない〈穴〉がひそかに増えつつあるような恐ろしさを、私は、ふとおぼえるのです (p.17)」との記述があったが、本短編においても、じわじわとそして確実に日常を侵食する脅威が描かれている。

思考がしだいに没個性化、無力化されていく不穏な社会の雰囲気のなかで、主人公の意思の拠り所となるのは、時代の流れに伴って忘却されていくものへのノスタルジーである、という着想にも味わいを感じた。