地下書庫巡礼記

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『太陽を曳く馬』 人は死を語りうるか?

私たちは生きている限り、当事者としての「死」を認知しえない。それでも人間である以上、必ず訪れる生物としての「死」。そのような「死」について、私たちは真実何かを語ることはできるのだろうか?

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髙村薫著『太陽を曳く馬』では、人の生死とその言語化というテーマに迫る。

欺瞞を排して容赦なく切り込んでいくその舌鋒はいや増して鋭く、読者としても束の間薄ら寒い生死の淵に立ったかのような気がして、ちょっと言葉にならない感じだった。渾身の作だと思う。

 

 

 

あらすじ

『太陽を曳く馬』は、『晴子情歌』『新リア王』から続く福澤シリーズ三部作の最終巻にあたる。

青森の草庵に居住していた福澤彰之は、前作から14年が経ち、東京の禅寺へと転居している。その間、彰之の身辺では、息子・秋道が殺人事件を引き起こし、知己の修行僧が一名事故死していた。

同著者の別シリーズの主人公・合田雄一郎を語り手として据え、万人が理解しうる動機や経緯を持たないこの二件の事件/事故の捜査を通じて、21世紀の現代で「生きること」の意義を問う

 

一件目:言葉による記述の限界

有効な言葉を持たない当事者

一件目の事件は、彰之の息子・秋道が同居女性と近隣住人の二名を殺害した事件だ。

生来の画才を活かし、東京ではパトロンのもとで絵画制作をしていた秋道。事件当時は、創作活動における極度の集中状態にあり、その集中を妨げられまいとして被害者から発せられた「音を消すために」金槌で頭部を殴打した、と覚束なげに供述する。

統合失調症の症状も見受けられ、その不明瞭な犯行動機の取扱いに警察は困惑し、検察は読解のための補助線を加えようとし、いざ公判が始まれば、殺意の有無を争点に弁護人との議論が白熱する。

他方、当事者たちの近くへ焦点を絞っていくと、外界に対していかにも鈍い反応の秋道や、物言わぬ死者、色褪せたように暗鬱に沈む遺族、といった無言の風景がひっそりと存在している。この〈有効な言葉を持たない当事者/その周囲で彼らを制度的なコンテクストで語らんとする局外者〉という構図の空虚さがピリピリと染みた。

「ある」と分かるのに「ない」

あるいはこの構図に当てはまらず、第三のスタンスを取る異質な存在もいる。秋道宛てに書簡をしたためる彰之、その人である。

証人席では多くを語らなかった彰之だが、これら書簡の中では、息子の犯行自体を正当化するものではないと前置きしたうえで、被告人としての秋道の心理から離れ、絵を描く人間としての秋道の知覚や内的世界に肉薄しようと試みている。曰く、犯行当時の秋道の画家としての身体には、なにがしかの「言語化しえない感覚」が確かに存在しており、それは「光」を浴びるようなものだったのではないか、と。

ここで最も重要なのは、言葉を積み上げた思索の中で言語化できないもの」の存在が示唆される点だ。社会的な意味において、言葉で記述できないもの、その存在を証明することはできない。だから「ある」と分かるのに「ない」、そんな事態が起こりうる。

そしてまさに言葉で記述できない要素を含むがゆえに、裁判の判決結果は、自明で社会的に強固なコンテクストへと回収される訳だが、この判決結果の提示をして、読者は「ある」と「ない」の狭間で引き裂かれながら、言葉による記述の限界が確かにあると結論付けられたその瞬間に立ち会うのである。

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ちなみにここで言及された「一つの事件をいかに言語化するか?」というテーマは、後に刊行された同著者の『冷血』へと受け継がれ、刑事司法における真相の究明と、裁判の円滑な進行のために便宜上記述される仮の姿との乖離、という形で通じて描かれてもいる。

 

二件目:「言語化できないもの」にどう向き合うか?

二件目は、彰之がかつて責任者を務めていたサンガ(仏教の修行者集団)に在籍していた青年修行僧の事故死だ。

この事故の事件性を問うため、合田ら警察による再捜査が入るという筋書きなのだが、警察小説としての一応の要素は残しつつも、ここで大きく筆が割かれるのは仏教にまつわる宗教談義だ。これがとにかく濃密で読み応えがある。

時に仏教の起源に立ち返り、時に西洋の宗教論を紐解きと、門外漢にとってはかなり専門的だと感じる内容も多いのだが、ここでの大枠のトピックは以下である。

  • 言語化できない直観知/論理を重んじる理証〉という対比、また両者の共存可能性 (道元の思想)
  • 伝統宗教としての仏教から論じる、オウム真理教の宗教性
  • 人間の生物学的死と宗教の存在意義の関係

こうした宗教談義が収束していく先にあるのは、言語化できないもの」に対して我々は果たして如何なるスタンスを取るべきか、という問いである。事の発端であった青年修行僧の事故死の真相もまた、この問いへと緩やかに合流する。

作中でこれら談義に参加するのは曹洞宗の仏家ばかりだが、一部異端であるとの注釈が付きながらも、この問いに対する解については三者三様、みな少しずつ異なる多様な解釈が選択肢として提示される。例えば以下のようなもの。

  • 解釈1:「ある」も「ない」もその曖昧さを含めてこの世である、と世界を定義するもの
  • 解釈2:いわゆる悪魔の証明みたく、「ない」をどうにかして理解しようと、それ以外のすべての「ある」の可能性を否定し尽くす覚悟を決めるもの (彰之の思想)
  • 解釈3:全ての可能性を内在させることを望み、「ある」と「ない」が未分化な状態へと立ち返ろうとするもの
  • 解釈4:「ある」と「ない」の相補性に神羅万象の全き真理を感じ取るもの

こんな議論が紙面を尽くして展開されるのだ。面白く感じずにいられるはずがない。

 

人は死を語りうるか?

さて、冒頭の問いに戻る。人は死を語りうるか?

本書『太陽を曳く馬』では、その問いに対して厳格に「ノー」と答える。人間にとっての死とは、永久に経験外であり続ける大いなる不在、そのようなものであるはずだ。自分の死は未来のどこかに確実に「ある」と分かるのに、いざ死が訪れたとき我々に自我はない。「ある」と分かるのに「ない」。人は死を言葉で表現することはできない

では翻って、我々が今まさに経験している生ならば、語ることができるのか。語ることに意味はあるのか。生きる意味とは何だ?

この問いへの解もまた、実に身も蓋もない。生とはただ死の周縁を回り続けるだけの運動に過ぎず、そのような生の運動に意味もない。さらに言えば、この生の意味のなさを精一杯に誤魔化すための活動こそが人生である、と。

その上で『太陽を曳く馬』では、生の只中にあり、語りうることしか語れない身でありながら、それでも語りえないものへの問いを発し続けたいという彰之の意思表示で幕を閉じる。たとえ実現不可能と分かっていても問い続けることだけは止めない、狂気に至る一歩手前の危うさを孕んだ表明。

答えが見えない暗中模索の生の問答、その心もとなさ、寄る辺のなさを思い、終盤の展開は千々に乱れるような気分で、読み進めながらも居ても立ってもいられなくなり、最後は作中の合田のように少し泣いた。

 

さいごに

飢餓や戦争による貧困が切実な脅威ではなくなった現代日本において、「生きること」の意味は複雑化してきているだろう。2000年前後を舞台としたこの二件の事件/事故を通じて感じるのは、21世紀を目前に控えた世紀末の厭世感と、いざ新時代を迎えた後に広がるどうしようもない寄る辺のなさだ。

また9.11同時多発テロ事件に強い衝撃を受ける合田の様子も言及されており、2000年前後という時代における暗中模索の精神的混乱如実に表れた作品だと思う。

とても面白かった。

 

 
▼福澤家三部作 #1『晴子情歌』について

twilight-daniel.hatenablog.com

▼福澤家三部作 #2『新リア王』について

twilight-daniel.hatenablog.com