地下書庫巡礼記

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『新リア王』の時代観 老いゆく者に未来は見えない

髙村薫著『新リア王』を読んだ。

 

青森の名士・福澤家を題材にした三部作の第二作目にあたる。

母と子の繋がりを描いた第一作『晴子情歌』に続き、『新リア王』では父と息子の対話を通して、世代継承と時代の移り変わりを描く。

題名通りまさに「悲劇」に至る痛烈な皮肉と、雪国の染み入るような寒さを噛み締めながら読んだ。

 

 

 

あらすじ

代議士・福澤榮は会期中の国会を抜け出して、末の息子・彰之が住む禅寺を訪れた。

老政治家である父、禅家である息子。二十年ぶりに相対した父と息子が語るのは、政治について、仏法について、時代について、未来について——。

雪深い冬の草庵で重ねられた、四日間にわたる濃密な対話を描く。

 

彰之との対話

前作『晴子情歌』で遠洋漁船員と寺の手伝いを掛け持ちしていた彰之は、十年余りの歳月が流れた『新リア王』では禅寺に居住する僧となっている。

親族内でも孤高の異分子と見なされている彰之は、後腐れのない話し相手としてこれ以上はない相手。なかば自暴自棄となって単身で彰之のもとに訪ねてきた榮は、自らの「今」を構成するまでに至る大小のエピソードを語り始める。

まずは外堀を埋めるように、周辺に散らばる雑事や小さなエピソードから。やがて榮が陥る事態の核心、榮が抱く心境の核心へと。

『新リア王』の彰之は、時代と時代の中継ぎとしての役割を担う。以下では、彰之との対話を通じて顕わになる、榮たちの世代が築いてきた時代について、そして現在、未来への時代の移り変わりについて考察する。

 

榮たちの時代

次世代に対する愛憎

四十年にわたり代議士を務めてきた榮。そのような代議士人生の集大成として、榮もまた老いを意識した者のご多分に漏れず、二世を残す夢に奔走していた。長男・優を参議院議員候補として擁立し、満を持して政治の表舞台へのぼらせて、福澤家継承に向けて布石を打っていく。

しかしながら万事が順調というわけではなく、潜在的な問題もまた存在していた。世代間の断絶である。

そもそも青森の田舎紳士の出であった榮は、戦争の貧困を知る者がもつハングリー精神と、政治によって国家と国民を救いたいという大志と、一方では、政治信条には興味がないと平気で嘯く衆愚への嫌悪とを、同じ胸に抱きながら代議士人生を歩んできた、とその足跡を振り返っている。

一方で80年代後半バブル経済期、その消費社会を生きる優たち次世代の政治観は、現状に対するニヒリズムに満ち、政治の理想を語るではなくいかにも官僚的な技術論に終始する。それが榮には、政治家としては無邪気に過ぎた、無責任な姿勢と映る。

こうして次世代への懐疑、彼らが語る未来への懐疑を募らせながら、かたや御年七十半ばの榮自身には、もはや来るべき時代の姿を捉えることができないのである。その不如意が榮の不安と焦燥をいっそうに駆り立てて、時にヒステリックな苛立ちとなって噴出する。

「私の世代が築いてきた近代のあとに〈何があるか〉ではなく、〈何かがあるのか〉と私は尋ねておる」

「確かに (中略) 新しい時代にも〈何かはある〉のは当たり前だが、それを受け入れられない者にとっては何もないのと同じであり、荒野と同じことなのだ」

自らが築いてきた時代が次世代へ受け継がれていく、そう確信したいという切なる欲求と、万一それが受け入れられないものならば最早見たくないという意固地な拒絶。相反するこれらの感情こそ、榮が抱く二世・優に対する愛憎、ひいては次世代に対する愛憎である。

 

他者と地続きの「私」

榮と優、この二世代間に横たわる断絶について、もう少し深掘りしたい。

共に政治家となった榮と優ではあるが、上述の政治観の違い以外にも、例えば政治家として「国を動かす」ことの困難さに直面したとき、その要因を探る着眼点もまた大きく異なる。すなわち社会の構成員たる大衆の無知さ・愚昧さへの嫌悪を滲ませるのが榮であり、形骸化した権力構造や社会システムの欠陥に絶望するのが優なのである。

これは言い換えると、戦後日本をゼロから復興した世代が持つ当事者意識と、既成体制の粗に気付き始めた戦後世代の傍観者意識との違いであり、はたまた個人と社会が地続きであった全体主義の名残と、個人化していく社会に身を置く者の肌感覚との違いでもあるともいえるだろう。

榮と優の二世代間の断絶が示すのは、単なる政治観や政策理念という議論の枠を超えた、個人と社会の関わり方、ひいては〈個人〉としての境界に関する社会的認知の違いでもあるのではないか。

  ***

このような社会的認知は、ミクロな人間関係の築き方にも確実に投影されている。特に榮の〈個人〉の捉え方は、優との関係、そして榮の私設秘書・英世との関係を通じ、『新リア王』という物語のオチとしても機能する。

  • 優との関係について:二世を残すという夢のため、地盤を整え時機をうかがい最善のお膳立てをしても、父の思惑通りに息子は振舞ってくれない。それどころか真逆の振る舞いをする。そのような父子の関係をさし、父子二人で「足してゼロ」になるようだと榮は表現する。
  • 英世との関係について:光があるところには影があるように、代議士たる榮が理想を語るため、代議士の暗部たる一切合切を担う存在が必要だった。それが英世だった。そのような代議士と私設秘書の関係をして、「一心同体の裏と表」だったと榮は表現する。

上述の二つの事例は、〈個人〉の捉え方という点において、本質的に同じ前提に基づく発言だといってよい。つまり榮にとって、優も英世もまた「私」という個人と地続きの存在であり、総体として利であるならばそれこそが是である、という認知である。〈個人〉としての領域が人ひとり分に収まらず、他者の領域にまで侵食することの是非を問わない、そのような暗黙の前提。

榮のこうした〈個人〉の捉え方は、他者との関係にいびつに影を落とす。そうして物語冒頭で宣言されていた、優の離反と英世の自死という事態を招くに至り、中核人材を相次いで失った代議士・福澤榮は転落の道を辿るのである……。

 

目の前にあっても見えない未来

回想ベースの対話が中心となる『新リア王』だが、昔話を語るその合間で、雪に閉ざされた草庵で飯を食らい風呂に入り寝床に入り、日一日と時間は着実に進行していく。このような現在進行形のパートにおいて不穏な影を落とすのが、彰之の子、榮の孫にあたる秋道の存在だ。

非行を繰り返す秋道についての情報は、つねに伝聞の形で描写され、その暴力性を裏付ける無機質な経歴やエピソードの他に、人としての輪郭が浮き彫りになることはない。また結果的に榮が秋道本人と顔を合わすこともなかった。秋道という存在は、理解しえない異質な「何者か」としてただそこにある。

未来とは、エントロピーのように時代の流れに伴って不可逆的に発散していくものではないか、と彰之は思索していたが、そのような意味において、孫・秋道とはまさに榮にとっての理解しえない未来、混沌たる未来の象徴でもあるだろう。

榮の生命の灯火が消える間際、その眼前には、秋道が手を下した暴力的な光景が広がっていたはずだが、混濁した意識下でその視覚情報が意味を結ぶことはない。代わりに脳内を駆けるのは、彼自身の在りし日の美しい思い出の走馬灯である。

容赦なく心を抉るこの虚実のコントラストの鋭利さもさることながら、未来の象徴たる秋道がもたらした「あるがままの現代の姿」を目の前にしながら、押し寄せる死の気配ゆえに榮はそれを真に認識しえない、という皮肉もまた中々に痛烈である。この皮肉こそ、まさに「悲劇」である。

老いゆく者は、未来の姿も、その実情も知ることはないのだ。

 

 
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