地下書庫巡礼記

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『孤児』フアン・ホセ・サエール|あなたが感じる、この世界の手触り

フアン・ホセ・サエール 著『孤児』(寺尾隆吉 訳) を読んだ。

この作品は、皆川博子 著のエッセイ『天涯図書館』を通じて興味を持ったのだが、冒頭数ページにして強い内省と他者への静かな洞察を含んだ眼差しを感じとり、これは好きだと確信したのだった。

 

 

あらすじ

未知の土地インディアスを目指してモロッカ諸島へ出航した探検船隊は、上陸した先で原住民インディオたちからの襲撃を受ける。見習い水夫であった主人公は、ただひとりインディオたちの捕虜となり、その後救出されるまでの十年間、独自の文化が根付く土地で彼らと生活を共にした。

月日は流れ、老境に差し掛かった主人公は、自らの人生に色濃く影響を与えたインディオたちとの日々を振り返り、彼らの文化への考察を通じて、生についての思索に静かに分け入っていく

 

異文化における世界の見え方、〈私〉の役割

〈彼ら〉の文化

孤児としての出自、遠い異国でのインディオたちとの暮らし、救出、そして祖国への帰還——。主人公がたどった数奇な人生の中でも、インディオたちと暮らした十年間は、主人公にとって人格形成の中核を成すものであったようである。

彼らの集落で主人公が経験した出来事は、その外枠だけを掬い取ると実にセンセーショナルな要素を含むが、そういった「毒々しい」異文化に対する糾弾や有害な好奇心からなる行動からは距離を置き、彼らの文化的背景への考察を静かに深める、というのが本作の最も大きな特徴の一つになっている。

異文化における〈私〉の役割

インディオたちの特性として折に触れて言及されるのは、一見して意外なことに、彼らの驚くべき実直さ、勤勉さである。事実、主人公は捕虜という立場ながら、インディオたちからは礼儀正しく丁重に、そして愛嬌と親しみをもって遇される。

このような遇し方は、彼らが捕虜に「ある役割」を期待しているのではからではないかと主人公は推察する。それも、インディオたちの独自の内的世界の在り方や、存在論的な意味での世界との関わり方など、彼らの文化の根幹に強く結びついている類のもの。

この「役割」について、主人公はインディオたちの行動様式や言語系への分析を加えながら導出していくのだが、その過程がぞくぞくするほどにスリリングなのだ。

岸辺の砂浜にて

インディオたちの集落の最も象徴的な場所として、主人公の回想に度々登場する岸辺の砂浜がある。集落に連れてこられた初めの日、主人公はこの岸辺でインディオの子どもたち数人が集団で遊んでいる姿を目撃するのだが、このエピソードの取り扱い方もまた実に技巧的で色鮮やかだ。

というのも、単にある種の情動を読者に喚起する伏線として機能するに留まらず、子どもたちの間で代々伝承されているらしいこの遊びは、その伝承性と象徴性の高さゆえに、彼らインディオたちの生の捉え方、ひいては我々人間の生の真理にまで敷衍しうる側面があると示唆されるのである。

連綿と繰り返される生と死のサイクルに思いを馳せ、耳が痛くなるほどの静寂の境地に佇んでいるようでもあった。

 

〈あなた〉と〈私〉の繋がり

インディオたちの集落から救出された後の話は、ごく手短に語られる。

いわば神隠しからの生還者ともいえる主人公は、「こちら側」に帰還した後も、その土地、社会、文化に帰属意識を持つことができない。それどころか、自らの在り方に無批判な「こちら側」の独断主義者たちを「意地の悪い奇妙な生物」だとして、嫌悪感を顕わにしている。

一方で、原体験として刻まれることになったインディオたちに対しては、「この世で人間と呼びうる存在はあのインディオだけ」と評し、その生き方に強いシンパシーを抱いているようである。

もちろん主人公にとっても、インディオたちとその文化は、どこまでも「他者」であり「異文化」であり続ける。その上で、他者を他者と認識し、その在り方そのままに対峙しながら、理解できないものを理解したいと願う、その精神活動に伴う情動をシンパシーと呼ぶとするなら、「客体として対象を理解すること」と「対象にシンパシーを抱くこと」は矛盾しない。

  ***

こうした主人公の心の動きによって、インディオたちの生の軌跡と、主人公の生の軌跡は、永遠などないこの世界の片隅で奇跡のような交わりを果たす。少なくともインディオたちとの出会いについて、主人公はそう解釈している、と最後の一文は語る。

これがとても美しく、実直な一文だと感じた。そしてこんな、近くて遠い、遠くて近い、〈あなた〉と〈私〉の距離感、その繋がりが心地いいと思うのだ。

 

 
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