地下書庫巡礼記

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高村薫『李歐』の感想|魂なき肉体と実像なき精神、その出会い

 暖かくなってきましたね。春といえば桜、桜といえば『李歐』と連想して、おもむろに本棚から取り出して再読していました。

 あらすじ上はロマンティックなノワール小説なのですが、その背景で、主役二人の造形や結びつきが象徴する概念のようなものが見えるように思え、物語の流れだけを追っていた初読時とは異なる気付きがありました。

 

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あらすじ

惚れたって言えよ――。美貌の殺し屋は言った。その名は李歐。平凡なアルバイト学生だった吉田一彰は、その日、運命に出会った。ともに22歳。しかし、2人が見た大陸の夢は遠く厳しく、15年の月日が2つの魂をひきさいた。
『わが手に拳銃を』を下敷にしてあらたに書き下ろす美しく壮大な青春の物語。   

 

一彰と李歐/魂なき肉体と実像なき精神

 「毎朝、あるのは重力だけだ」とひとりごち、内面の空洞を自覚し生活を送っていた大学生の一彰。そんな彼が出会った、李歐という青年。この二人の青年の運命的な出会いによって物語は動き出します。

 一彰と李歐。この両者の造形を対比してみると、なかなか興味深い構図が浮かび上がります。

 一彰の認知する現実世界は、慢性的な虚無に蝕まれる中で、おおよそ身体的な感覚や生理的衝動を拠り所としているように見受けられます。それは例えば、機械いじりをしている一時、脳裏でスパークする指先の鋭利な感覚や、李歐と共に闇の世界の一端に触れた時の血肉の湧き立ちなど、理屈としては不明瞭でも確固たる感覚として発露していました。

 一方で、李歐という存在は、浮世離れした知と美とを備え、その手腕は如才なく、豪胆さをも持ち合わせ、となんとも非現実的なほどに鮮やかな存在です。生死をさまよう一瞬には、霞のような生霊となって一彰の前に現れることすら。

 現実世界とフィジカルに繋がる一彰と、まるで非現実的な存在であるかのような李歐。両者はある意味対極的な性質を帯びていながら、一つの共通点を持っている気がします。それは、本来あるべきもの、備わっているべきものが欠如した存在である、という点です。どこか人間的な情動が抜け落ち、その結果、情動の代替として身体的な感覚に立脚してのみ現実世界と関わっている一彰。彼は、言ってみれば魂を失くした肉体のようですし、現実味がなくほとんど観念的な存在として立ち現れる李歐は、未だ実像を手に入れられない何か精神的存在のよう。

 このように、一彰と李歐は、人格を持った一個人として描かれながらも、それぞれに〈魂なき肉体〉と〈実像なき精神〉とでもいうような、ある種の状態にある心身の概念を象徴しているような感じを受けました。また、これらの概念は互いに相補的でもあるので、両者が互いに魅かれ合う引力もまた、道理といえば道理なのですよね。

 

肉体と精神の合一、永遠なるもの

 『李歐』は、15年という長い時を経て、二人の青年が再会する物語ではありますが、それと同時に、魂なく動いていた肉体=一彰が、実像なく奮戦していた精神=李歐に運命的に出会ってしまう物語なのでは。そして、肉体=一彰と精神=李歐が、最終的に理想的な合一を果たす、そのような物語なのでは。

 そんな訳で、大陸に渡った一彰が、李歐との15年振りの再会を果たし、「もう一片の無駄もなく研ぎ澄まされた肉と骨と魂」と李歐を称したとき、この再会によって李歐もようやく地に足をつけるための「肉と骨」という実像を手に入れたのかと思わず感嘆が漏れたのでした。

 一彰は、李歐との再会した後の姿について、下記のように夢想しています。

一緒に大陸の平原に立つ桜の姿を見続けた。そこにはもう咲子や子供は影も形もなく、自分の姿もない。李歐もいない、夢の跡のようだった。

このような、個々人の輪郭が消失した圧倒的な時間の流れは、例えば〈永遠〉や〈調和〉のイメージにも極めて近いように感じます。また、一彰の脳内に度々去来していた「大陸」への憧れも、この〈永遠〉のイメージと地続きのようにも思え、魂不在の肉体と実像を持たない精神が強く希求し合うのは永遠なる調和を求めるからだ、と何やらストンと合点がいったような気がした次第でした。

 

まとめ

 ロマンティックな桜色の紗幕がふんわりとかかったノワール小説のようでいて、その実、肉体と精神の理想的な合一の過程を描いたものすごく象徴的な物語を読んでいるのかもと、初読時にはない気付きがありました。こういうのも再読の面白さですね。

 自己非難が多いわりに結局停滞する一彰の露悪的な内省や、やや強引さの残る展開といった欠点もありますが、それも上記のような象徴的な物語であると解釈すると、この違和感も主題上のストラテジーである可能性もなくはないかな。

 

 一彰の人生観に著しい影響を与えた奔放な母親像についても言及したいのですが、こちらは単行本版である『わが手に拳銃を』との比較の上述べたいので、『わが手~』を再読した際にでも改めて書こうと思います。