地下書庫巡礼記

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高村薫『我らが少女A』の感想|いっそのこと真相など分からないほうがいい

 合田シリーズ6作目の『我らが少女A』を読みました。

 1993年発表の1作目『マークスの山』では30代だった合田も、本作では50代後半となり、漠然と老いを意識し始めるなど確実に歳月が流れていることを実感します。

 

あらすじ

12年前、クリスマスの早朝。東京郊外の野川公園で写生中の元中学美術教師が殺害された。犯人はいまだ逮捕されず、当時の捜査責任者合田の胸に、後悔と未練がくすぶり続ける。

「俺は一体どこで、何を見落としたのか」

そこへ思いも寄らない新証言が――。

 題名の少女Aこと、12年前に起こった未解決事件の被害者の元教え子・朱美の死をきっかけに、過去の未解決事件の再捜査が行われる。12年前、そして現在と、関係者たちの人間関係にまつわる仔細が無情なほどにあらわにされていく過程を描いた作品。

 

人の死がもたらすもの

事件が暴く事実

 事件当時の記憶を揺さぶられることで関係者たちの脳内に去来するのは、疑心暗鬼、自責の念、在りし日への後悔、その多くは敢えて目を向ける必要もなかった暗い感情の機微です。かさぶたをピリピリとめくるような痛みを伴いながら、これらは例によって細密画のごとく克明に描写されていきます。

 身近に事件が起こらなければ、決定的な問題として表出することもなかったかもしれない、それなりの悩みや軋轢を抱えた<平凡>な家庭、<平凡>な人生。それらが、人の死によって狂う。

 登場人物の一人は次のように述懐します。

小説や映画で、名探偵が得々として真犯人はおまえだと言い放つのとは違って、本ものの事件が暴く事実の一つひとつ、現実の一つひとつが自分たち身近な人間の皮膚を剥ぎ、臓腑をえぐる。何か新しい事実が分かっても、少しも嬉しくない。真相など分からないほうがいい。

新しい情報で事件が解決するわけでもなく、既に人生の舞台を退場してしまった者もいる中で今更確かめるすべのない新たな疑念や未来に繋げようのない事実の断片がただ居心地悪く残るだけ。それでも生きている者には、その先の人生が粛々と続いていくのです。

 

人と人とのつながり

 事件の波紋は、「それぞれの現実生活の檻のなかから、なにがしかの欲望をまさぐるようにして朱美を見ている」と表現されるような無責任な興味を駆り立てることもあれば、朱美こと少女Aの蜃気楼のような像を介して、不思議と人と人との間を近づけることもあります。

 例えば、<Merry Christmas!>というメッセージが次から次へと関係者から関係者へ伝播していくシーンでは、日常でふと浮上した宛先のないやわらかい感情の連鎖を垣間見たようで、身を切るようトーンが多い中どこか<救い>にも似た印象があります。

 あるいは、生きてきた境遇も立場も異なりこれまで別段交友もなかった母親二人が、突如訪れた病をきっかけに肩を寄せ合うように労りあったりもします。病をきっかけにわずかな変容を見せるのは、57歳になった合田と盟友・加納もまた然りで、老いの予感がそうさせるのだろうかと少し感慨深いです。

 

故人へのはなむけ

 実のところ、中盤まで読み進めた時点では、すべて現在形で進む文体のニュートラルさも相俟って、これまでのシリーズ作品と比べあっさりした味付けだと感じていたのですが、終盤に差し掛かり、日々の生活や時々の感情、歳月の経過や老いからにじみ出るやるせなさ、あるいはそれらをいっとき浄化する朝日にも似た<救い>のようなもの、これらはやはり高村薫の作品に通底するもののように感じました。

 特に、『我らが少女A』のラストシーンで、故人たちをしのんで「二人は一緒に野川で遊んでいるの」と表現される夢想は、『マークスの山』のラストシーンで、死してようやく絶望のトンネルから抜け出し日の光を仰ぐことがかなった水沢の涙と地続きの感性のようにも感じます。死生観といってもいいかもしれません。

 

事件の顛末

 『我らが少女A』は、未解決事件を扱ってはいますが、フーダニットもホワイダニットハウダニットも存在せず、快刀乱麻を断つがごときカタルシスも存在しません。身も蓋もない言い方をすれば、最初から分かっていたことが、当時そこに存在していた確かな身体の感覚を伴った状態で分かる「だけ」なのです。

 事件の顛末について無言を貫く作者の姿勢は、むしろ雄弁にそのメッセージを表現しているように思えて仕方がありません。未解決事件の真相究明という、小説のために組み上げられた華美な舞台装置を取っ払った後に残る、生のままの人間の体温のようなもの。それを作者は、武蔵野の風景の中に見つけようとしたのかもしれませんね。