地下書庫巡礼記

どこかに眠る、懐かしの物語を探して

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皆川博子『愛と髑髏と』|日常を生きていけない者たち

 1985年刊行の『愛と髑髏と』が復刊されましたね。未読だったのでとてもありがたいです。

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 以下、各収録作について。

「風」

 庭は、寝がえりをうって、背をむけた

という強烈なパンチのある一文で始まる一作。この作品をはじめ、<あ>と<め>の攻防を描いた「水引草」 (『夜のリフレーン』収録) など、作者の掌編ではこのような文字でしか表現できないアクロバティックな作品が多いような気がします。

 

「悦楽園」

 凛々しくしかし痴呆のように無表情な目をした犬への恋慕として「私の苦痛、私の傷をあなたに捧げているのです」と述懐する主人公の心情は、行き場を失った自己犠牲的な恋情のようでいてその内実は、辛うじて何かに縋り付き狂乱状態の最中にある自分を取り巻く世界から振り落とされないようにするための逆説的な生の発露でしょうか。

 

「猫の夜」

 たった一匹の犬に対する暴力への服従により全世界のエントロピーの法則が保障される世界の秩序について描いた作品です。作者の作品でここまでSF的世界設定に振り切っているのは珍しいですね。他に思いつくのは、近未来SFの「水葬楽」(『猫舌男爵』収録) くらいでしょうか  。油絵のようにてらりと不穏な光沢をもち黒と赤のコントラストが強い描画手法に、ブルーノ・シュルツの息吹を感じます。

 

「人それぞれに噴火獣」

 家庭生活に追われ想像の世界への往来が絶えた、かつて画家であった主人公の母へ投げかけられる「母性と毒気とは、あい容れないわ」という生活と創作との二律背反に対する指摘。あるいは、後述の「舟唄」で、なしくずし的に過ぎていく日常へのせめてもの抵抗として、「その非実用性、有害無益のために、日常への嘲笑と毒を含み持つ」とこぼしながらつましい生活のなかでコーヒー一杯を口にすることの意味。

 身に覚えのある苦渋を的確に言葉で表現され、心に出来ていた皺がすっと伸ばされたような気持ちがしました。”有意義で実りのある“日常に空虚感を持ち、日々の営みを”正しく”送っていけない弱い人間にとって、皆川作品とはミルクのように優しくしみわたる毒のようです。

 

「舟唄」

 主人公により冷ややかにそして切々と訴えられるのは、日常に価値を見出せない人間が「なしくずしに、生命を削って」生きるのではく、死を与え与えられるその一瞬の激情に生きたいという諦めのような願いです。その願いをゆらゆらと運ぶのは、幼いころに見た紙芝居に記された彼岸と此岸の原風景であり、このイメージへと色褪せた日常の中から色づく気配を孕んだ情景がオーバーラップしながら重なっていく様は鳥肌立つほどに見事でした。

 また、彼岸と此岸の波間で声を上げずに溺れていく主人公のその心情と著しく乖離し、日常を受け入れることが出来る他者によって分かりやすい物語へと作文されていく哀切さに、同様の問題に正面から向き合った高村薫の『冷血』を連想しました。

 

「丘の上の宴会」/「復讐」/「暁神」

 「丘の上の宴会」の「うっかりしていると、何事にも無感動なことが他人に知られてしまう」と他人を見るように冷めた目で空虚に自分を見つめる女。または「復讐」の「”女”の部分を子供との生活になしくずしにまぎれこませたくない」のに否応なくやり場のない激情の波が生活へと押し寄せそれに飲まれる女。あるいは「暁神」の美しく驕慢な男をその醜悪さを含めて愛しそして裏切られたときに走馬灯の幻影を視る女。三者三様で、しかしすぐに皆川博子が描く執着と愛の形だとわかる気がします。

 

まとめ

  編者の日下氏によって「皆川幻想小説の原点」と称されている通り、80年前後に発表された本書収録作には、70年代発表作のような犯罪小説の形はある程度保ちつつ、手法面では決められた型からはみ出していくことができる軽やかさのようなものを感じます。一方で、まるで泳げない人間が水中で息が詰まらせ死に物狂いで水面に顔を出し酸素を求めるような切実さは一貫して変わらず、皆川作品のエッセンスが詰まっているともいえる短編集でした。